私は診断を受けるまで、本当に自尊心が高かった。いい意味で。
小さい頃から、絵を描くこと、歌を歌うこと、自分を表現することが好きだった。
高校生になっても、大学生になっても変わらなかった。
自分の感じること、考えることを信じられていた。
自他の区別をはっきりと付けることができていた。これがすごく大きいことだと思う。
「私はこういう感じ方、考え方だけど、それはもちろん私以外の人はそうじゃない。だから、私が感じること、私の考えが私にとっては正解で、それは他者にも当てはまるんだよなあ。」
と考えていたから、他人の目が今ほど気にならなかったのです。
診断を受けてから、「私の感じ方、考えは普通じゃないんだ、そうなんだ、普通じゃないんだ、普通になりたい、普通でいないとダメ人間なんだ」と無意識に思うようになりました。
大学在学中にも、他の人と感じ方や考え方が違うのかもな、と思うことはあっても、それが普通じゃないとか変なんて思ったことなかった。私は私だけで、私の感情と思考が私の世界の全てじゃん、そしてそれは他者にも当てはまるから、私の感情と思考が大切なように、他者の感情と思考も尊重するものなんだなあ、って。
診断を受けて、「普通」に固執するようになった。自分が、よりも、人にどう思われるかを気にして、「こう言ったら嫌われないぞ、変に思われないんじゃないかな」を基準に発言するようになって、いつの間にか自分がいなくなっていた。
そして、あんなに好きだった自分を表現する活動が、嫌いになっていった。
だって、何も言わなければ、表現しなければ、誰にも何も思われないですむから。
いつの間にか、好きだったことが、自分の価値を測るためだけのものになり、同じようなモノサシで人を測るようになっていた。
クソじゃん!!!!何だそれ!!!!!!って、ようやく思えるようになってきたのでした。
自分は自分、人は人だ。ありきたりだけど、そうなんだよ。そうじゃん!!!
絶対無理じゃん。エスパーじゃないじゃん。人の気持ちなんてわかるわけないだろ!
感情はわかる、喜怒哀楽。でも、どんなことで喜怒哀楽が生まれるかなんて、人それぞれだろ!それなのに、私に向かって「人の気持ちがわからない人」って言ってきたアイツ。
いやマジで、なのにさ、平気で「私の気持ちわかってくれないんだね」とか言ってきたアイツ。
「弱い自分」で他者に罪悪感を与えてコントロールしてズカズカと入り込んできたアイツ、許さん。
私は悪意を持って人に接したことがなかったし、嫌味とか「察してよ」っていう感覚がわからないから、残念ながらアイツの「察して」も「私はこんなに弱いんだから優しくしてよ」にも一切気付かなかったし、「弱い=かわいそう」って図式も持ち合わせていなかったから残念でした!でも、SNSでひどいこと言ってきたことや軽く暴力されたことは忘れないし許さん!!!!
人と人とは分かり合えないから、言葉がいるけど、その言葉でさえ嫌味の場合や「察して」を隠している場合がある、でもそんなこといちいち考えてたらキリがないし、自分の頭の中であれやこれやと想像してみても、本人に聞かないとわからない。
怖くても勇気を出して、人と向き合うことをしていくしかないんだ。
一度吐いた言葉は戻らない。だから、言葉を伝える前に、考えなきゃ。
その言葉は、過不足なく自分の気持ちを表現できてるか、できていなくても、限りなく近いのか。
自分の気持ちを偽って相手に伝えたら、(例えばそれは自分のプライドや恐怖心が勝る場合が多いのだけど)もっと話がこじれるから、やっぱり最初から自分の気持ちを伝えるのがいいんだ。伝えるということは、その結果、関係が拗れてしまうということも背負う覚悟で言うんだ。そのくらい、覚悟がいるんだ。なのに、平気で本心とは違うことを言って、人を傷つける人がいて、はあ、なんだそれ。
最近、また自分の感情に自信を持てるようになってきて、自分を表現できるようになってきた。
心が健やかだった頃、私は本気の趣味で歌を作っていたのですが、自分の感情を否定するようになってから、全く歌詞もメロディーも浮かばなくなって、曲を作ることができなくなっていた、っていうことに今気が付いた。
さっき、曲や歌詞がなんとなく口ずさめるようになっていて、「自分の気持ちを認められてきたからかもな」って気が付いた。わお。
とても、良い傾向だ。このブログで、自分を表現するんだって決めたんだ。
今日はこれで終わり!!!