大学生のときにバンドでオリジナル曲を作って演奏してて、歌詞も書いていた。
聞いた人の心を動かせるようなライブがしたかったので、自分が表現したいことかつ普遍的なことの共通項を取り出して、できる限り直接的な感情表現は避けることを意識していた。(避けるだけであって、やっぱり直接的な表現はしてしまうけど)大好きなジュディマリのYUKIちゃんの歌詞がまさにそれ!だった。
大学を卒業する前、ADHDと診断されたことをきっかけに、自分という存在に自信を持てず、外的なもので自分の価値を測るようになり、
周りの人にどう思われるかで生きるようになってから、自分の心の声が閉ざされ、曲も歌詞も浮かばなくなった。
以前は、メロディーも湧き上がるものがあったし歌詞もそう、そのあと思考でこねくり回す作業はあれど、心が主体といいますか。
それが一切できなくなったけど、バンド等の作詞作曲や音楽活動は(といっても自分でちゃんと作ると時間かかるから考えたメロディーにメンバーにコード振ってもらったりしてた自分ではわからなかったので・・・あと楽器は下手だった)大学生の時にやりきったと思っていたので特段気にもとめなかった。
それから数年、自分の心の声が閉ざされたことと、曲作り等の芸術活動ができなくなったことは関係があるのでは!?と思い始め、まあ、関係あるんですよねって気付いた。
歌詞なんて正直恥ずかしいんですよ。自分の感情大爆発じゃん。恋愛ものばっかだしよ!でも、当時は恥ずかしさもなかったし、自分の曲めっちゃいいなと本気で思っていた。それは、自分の心や感情を認めることができていたからだと思う。でも、自分と繋がれなくなると、その表現のパイプも閉じてしまって、自己表現ができなくなるのです。自分がいなくなるという弊害。
実際に、曲ではなくてグラフィックデザインのあれこれを作るようになったけど、自分の曲のように「めっちゃいいじゃん!」と思うことはほぼなかった。というか、あまり見たくないというか、好きにはなれなかった。自己の存在の軸を外に求めて生きるようになった結果がこれ。(それでもたまにいいじゃん!と思えるものは、先生に褒められたりもして、自分の感覚も信じてみてもいいのかもしれんとたまに思ったりもした)
上記のことを、去年の夏頃に気が付いたけど、どうしても自分の存在を外に依存してしまうことから抜け出せず。そしてつい最近まで、それは続く。
秋頃から自分を取り戻すためにあれやこれや試行錯誤していても、結局また苦しさや心の穴は埋まらずに振り出しに戻る、を繰り返していたが、一昨日くらいに、本当に久しぶりにグラフィック関連でものを作ったら、やっぱり楽しくて、しかも前は「人に認められたい・認められないと価値がない」という気持ちが強かったけど、ただ「楽しい」という気持ちで出来ていたので驚いたし、少しずつ自分を取り戻せている気がした。(それでもまだ心の穴は埋まっていませんが!!)
そしてつい先ほど、詩を詩の投稿サイトへ投稿した。さっき、辛くて大泣きして泣き止んだタイミングで、書きたいことが浮かんで、そのまま夢中になって書いた。この感覚がすごく久しぶりだった。承認欲求からではなく、純粋に表現したいと思えた感覚。2つ詩を書いたけど、自分でも言うけど結構好きや!と思った。思えば、曲を作っていた時も、そういう、感情がエネルギー源だったんだ。主に恋愛で辛い〜〜〜ってことばっかを元にしていたなあ・・・承認欲求からではなく、もっと自分の心から表現したいことを本当に久しぶりにできた気がする。
あと、デザインの専門学校の課題をやっていた時にも思ったけど、わたしは言葉を考えるのがわりと好きっぽい。小説とか長文は書けないけど、キャッチコッピーとかそういうの。
今日もストレスでお腹がキリキリと痛んで、食欲もない。あ〜色々書いていたらもうこんな時間か。今日も、というか最近は人間関係に悩みに悩んでいてまじで辛い。つらい〜〜〜〜〜。勇気を出すのも、悲しむのも、疑うのも、泣くのも疲れたけど、死ぬことはできないし、生きるしかねえ。
たまに詩を書いて、自分と繋がるためのリハビリをしていこうと思った。あと、グラフィック系のものとかも。でもどちらかといえば詩のほうが自分の心の表現か。
わあもう寝ないと!